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ナツカシマイコン

2005.01.15

我が青春のX68000

ナツカシマイコンのエントリを書いてからもう1年近く経ってしまった。

関連エントリを並べてみると

・ナツカシマイコン
・我が青春のMZ1500
・MZ自作ゲー時代
・8bit時代のマシン達

と4本もある。今回分含めたら5本だから専用カテゴリ作った方がいいんかね。でももうこれ以上は増えそうにないけど。
さて、今回はこれらのエントリ中でもちらちらと出てきているX68000について思い出すままに書いていきたい。

X68000はまだパソコンが「ホビー」であった頃に俺的に一番思いいれのあったシャープのパソコン(シャープはパーソナルワークステーションと言ってたけど)だ。
このナツカシマイコンシリーズ、ざっくり書こうと思ってても毎回長文になってしまう傾向にあるので、なるべくトピック毎に簡略に済ませたい。

先に断っておくと、調べられるものは書きながらなるべく正確な情報を入れるつもりだが、面倒なのでほとんどはあやふやな記憶のままで、間違いや勘違い盛りだくさんになると思われるのでご注意を……って、それが影響ある人なんていないか。読み物ではなくほぼ備忘録なので、読んで面白い&懐かしいと思う人はかなり限られてると思う。ついでにいえばユーザでない人が見てもさっぱりわけわかんないと思うが特に補足説明はしない。

ん、つまりそれって
「ユーザには物足りなく、not ユーザには意味不明」
ってことかい。「for 俺だけ」でいいや。とほほ。

◆ツインタワー出現
X68000はシャープから1986年の年末近くに発表された。実際に発売される1987年の春まで、雑誌(特にシャープマシン専門誌だったOh!MZ)にて毎月のようにこの「夢のマシン」が語られた。俺は何度も何度も繰り返しそれらの記事を読んでいた。それくらいパソコン仲間で冗談のようにいっていた「こんなマシンが欲しい」に近いものだったのだ。
まずみんなを驚かせたのはそのボディのデザインだった。それまでのパソコンはデザイン性はあまり重要視されてはいなかった。似たような四角い箱。それが当時の「マイコン」だった。
発表されたX68000はマンハッタンシェイプと称されるい高層ビルが二つ連結されたような独特の縦置きスタイルで現れたのだ。5インチフロッピーディスクを2基、そして当時まだほとんど普及していなかったマウスを標準装備していた。トラックボール状にもなるギミックをそなえたマウスだった。フロッピーは当時珍しい自動ロード自動イジェクト機能を備えたインテリジェントなもの。
見た目の高級感に負けないくらい価格もそれなり(本体のみで37万近く。専用ディスプレイ含めたらほぼ50万)で当時高校生だった俺に買えるはずもなく長いこと羨望のマシンだった。

◆衝撃の6万5千色
「君はツタンカーメンを見たか?」
X68000のハードウェアスペックはCPU速度を除いては他のパソコンとは次元が違っていた。特にグラフィック性能はダントツで、その象徴とも言えるのが65536色のカラーが使えるという衝撃。
それまでパソコンの画像といえば原色塗り塗りか、凝っていてもタイリングペイント(別の色を互い違いに並べて中間色を作る)が多用され、ショボい印象が拭えなかった。それが一気に「まさに写真のような映像表示」が可能になったのだ。
その象徴とも言えるのが広告に使われていた?X68000のディスレプイに映る黄金に輝くツタンカーメンの画像だった。イメージキャラクター化してたのか知らないが、このツタンカーメンマークの入った謎のグッズがあれこれあったような気がする。本体を購入してEXEクラブ?だったかに入会した時にもらったソーラー電卓にもツタンカーメンのマークが入ってたような……違ったかなぁ。探せばまだ手元に残ってるかもしれない。

◆その他のスペック
いかん、多色化だけでも長くなってしまった。細かいスペックはどこぞに表とかまとめてありそうなんで、その他の特徴的なスペックはここでさらりと触れることにする。

【サンプリング音源ADPCM搭載】
これも当時ほぼ他のマシンでは見ることのなかった機能。それまでも専用ボードなしで音声を擬似的に発生させる試みはあったが、それにマシンパワーが食われてしまったんではゲームどころではない。
X68000ではハードウェアとしてADPCMという圧縮型(データサイズが小さくて済むがデータ加工はしにくい)のサンプリング音源を搭載した。つまりこれによりそれまでのFM音源などによるサウンド機能に加えて録音した音声をそのまま再生することが出来るようになった。
このADPCM音源は当初考えられていた以上に幅広く使われることになっていく。

【ハードウェアスプライト、スクロール機能】
これもそれまでのパソコンにはあまり見られなかったもの。当時のPCは結構な値段の割にアクションゲームにおいては遥かに安いファミコンよりも遥かに貧弱なカクカクした動きだった。それはファミコンがアーケードゲーム譲りの専用のスプライト機能によりキャラクタをセル画を重ねるように簡単かつ滑らかに動かすことが出来ていたからだ。
X68000ではこの機能をハードウェアとして標準で取りいれ、当時のファミコンを大幅に上回るキャラクター動作を可能とした。(ただしスーファミ世代のような回転機能はなし)

【MPU68000】
8bit時代に全盛だったCPUはZ80だった。その後Intelの石に移り変わっていくのだが、X68000に搭載されていたのはマシン名の元にもなっているモトローラの68000というMPUだった。
ザイログ/Intel系での狭いメモリ空間をバンクバンクとやりくりしながらアクセスする必要や貧弱な搭載命令コードに比べ、リニアなメモリ空間そして高機能なコードセットにはファンが多かったようだ。この選択はその筋の人から歓迎された。その結果なのか、多くのツールがCなどの上位言語でなくアセンブラ言語で作成されていたような気がする。
搭載メモリも64KBフルメモリ、もしくは高級機で640KBが普通の時代に1MBを搭載。もちろん12MBという大容量(当時)まで金に糸目をつけなければ素直な拡張が可能だった。
8bitマシンユーザだった俺らはスゲーと思うと同時に「何に使うんだ?」と思うくらい当時はとてつもなく広く感じられた。って今はGB単位なんだよなぁ……。

【TV連携】
「パソコンテレビX1」からの伝統でもあるのだが、X68000の開発元がTV事業部だったこともあり、専用ディスプレイはTVとしても使えるものだった。それだけではない。キーボードからのTVのチャンネルやボリューム操作なども出来た。また、スーパーインポーズ機能により、モードによってはTV画面表示の上にパソコン画面を重ねて表示することが出来た。(すんごく見にくいけど)
スーパーインポーズさせながらのグラディウスはクリア不可能という伝説があるほどだ(ウソ?)。


【付属ソフト】
当時のゲーム少年達に何よりインパクトが強烈だったのは付属ソフトとしてあのコナミの名作「グラディウス」が付いてきたことだ。アーケードと変わらない出来栄えに感動していた。ある意味「このマシンならアーケードゲームも完全移植出来る」という認識をユーザに植えつけてしまった罪なソフト。

ゲーム以外にも当時他のマシンではプログラムの起動やファイル操作はキーボードでタイプするのが普通だった。X68000にはマウスが標準搭載になったこともあり、VisualShellというアイコンベースでこれらの操作を行うものが付属していた。もっともこの分野の先駆者はMacintoshで、その真似といってしまえばそれまで。ただこのVisualShellはまったり風の動作やマルチタスクではなかったこともあり、すぐに使わなくなった人が多かったんじゃないだろうか。
遅れてSX-Windowというマルチタスク(イベントドリブン型)のウィンドウシステムもシャープより提供されるが、どれだけ使用ユーザがいたかは不明。ゲームメインのユーザにはあまり関係なかっただろうし。バージョンアップを重ねて結構筋のいいシステムだったと思うのだけどマシンパワー不足は否めなかった。Emacs互換のエディタでソースを書きながら裏ではコンパイルとか出来るのはかなり便利だった。

付属していたプログラム言語はX-BASICというBASICベースながらCのような構造化言語を意識したものだった。悪く言えば中途半端。後にコンパイラも登場し、BASICでもそこそこのものが使えるようになった。ただパワーユーザは早いうちからCなりアセンブラなりでガシガシと作っていたのだと思う。

◆CG関連
最初でふれたように一気に多色化したこのマシン。当然、趣味の絵描きさんたちも殺到したものと思われる。早い時期にZ's Staffという高機能市販ペイントソフトも発売されその期待に応えた。えらい高かったけど。
俺が入り浸ってたX68000持ちの友人は絵描き属性の人だったので奨学金ぶちこんで購入していた。コピー防止用の専用アダプタか何かがついてたっけなぁ。

ただしX68000で65536色を使えるモードは512x512だったため、一部の絵描きさん達はアスペクト比の違いに苦しんでいたようだ。ディスプレイ自体は横長なのにドット数的には縦横同数のため1ドットが横長な長方形になる。X68000でだけ見る分には構わないが、他のPCで見ようとすると縦長な絵になってしまうのだ。

また多色化のデメリットとして画像保存サイズが跳ね上がることになったてしまった。そこで登場したユーザによる高性能圧縮ソフト"PIC"がいわゆるアニメ絵系に絶大な効果を上げる。驚異的な圧縮率と稲妻が走るような絵の圧縮復元が印象的だった。このツールは雑誌でも配布され、小さいサイズで流通出来るようになった画像データとともにユーザ間で広く普及していた。

◆音楽系
音楽系もかなり強力な機能をつめこんでいたX68000だが、その中でも一つのトピックとして挙げられるのがADPCMによるサンプリング音源を音楽演奏に使うという動きだ。
おそらく最初にこの使い方をしたのは結構初期に発売されたX68ユーザなら知らない人はいないと思われるZOOMのオリジナルゲーム"GENOCIDE"ではないだろうか。このゲーム中のBGMとしてADPCMが活用されていた。FM音源だけではだせない迫力の音。ゲーム中の楽曲が素晴らしい出来だったのとあいまって、プレイヤーに衝撃を与えた。

もちろん、ユーザによる楽曲演奏でも同じ試みが出てきた。雑誌Oh!Xで発表されたZ-MUSIC関連では、雑誌付録のフロッピーの形でドラムセットなどのサンプリング音色を合わせて収録し、多くのユーザが共通してPCMつきの音楽データを使えるプラットフォームを提供した。
とはいえ、X68000のサンプリング周波数はそれほど高くないため音のクオリティはそこそこではあったが確実にそれまでのパソコン単体ミュージックにはなかった世界を楽しませてくれた。

ただし、ハード制限でADPCMは同時に1音しか出せないため音声が重なると前の再生中の音声は切れてしまうという弱点があった。しかしそれもユーザパワーにより克服される。
PCM8というリアルタイムADPCM音声合成ソフトにより複数のサンプリング音源を同時に発生することが可能となったのだ。CPUパワーとしては非力なマシンのはずなのに何故そんなことが出来ていたのか。まさにマジック
音楽系では俺はあまり知らないのだがMDX系も根強い人気を誇っていたようだ。パソコン通信系で普及していたのかな。
後期はゲームBGMも含めMIDI機器の低価格化にともないMIDI接続を前提とした音楽演奏対応が増えていき、本体のみで凄い音を、という部分はマシンパワーの問題もあり、次第に弱くなっていったような気がする。

◆電脳倶楽部
元は雑誌Oh!MZ/Oh!Xのライターであった祝一平氏が満開製作所という怪しい名前の会社を興し、X68000ユーザのためのディスクマガジン「電脳倶楽部」を発刊した。会社名からしておそらく最初に広告を見た多くの人がジョークだと思ったに違いない。
予め半年分の代金を支払えば毎月フロッピーが郵送されるという形態のディスクマガジンだった。
雑誌Oh!Xは他の雑誌がフロッピー付属が多くなる中、コスト問題もあったのだろうが、メディア付属は遅く、また少なかった。(かわりにあるときは下手すると10枚近いディスクに展開されるほどの濃い内容だったが)
それまでの伝統もあるのか「プログラムは自力で入力する。それが勉強にもなる」というポリシーもあったのだと思う。他の雑誌がゲームをするためだけのダンプリスト掲載なものも多かった中、ソースリストを載せることにこだわっていた。もちろんそれは一理あり、俺自身、BASIC時代はそれで得るものが多かった。
ただし、実際にはソースリストの巨大化に従い、ソースを圧縮したバイナリのダンプリストを載せるなんて荒業も出現したりしていた。正直これは苦行であり16進数のタイプ練習以外には何の勉強にもならない。(ある意味乗り越えること自体が人生勉強かもしれない)
電脳倶楽部のディスクマガジンという形態はその無駄な作業からユーザを解放した。

結果、ソフトの流通と自作ソフトの発表の場がが飛躍的に拡大し、面白いプログラムや便利なツールをユーザの多くで簡単に共有することが出来るようになったのだ。紙媒体のOh!Xとお互いの弱点を補足しあうようにX68000のプログラミング文化を盛り立ててくれた。
このディスクマガジン、先見の明ともいえるブラウザを当初から搭載していた。今でいうIEやNetscape,OperaなどのWEBブラウザのネットワークなしローカルファイル専用版みたいなものだ。テキストと画像と同時に表示でき、このブラウザで表示される目次から読みたい読み物をクリックして読んだり、プログラムを実行したり音楽を演奏出来るようになっていた。
掲載コンテンツとしては読者投稿によるツール、画像やPCMデータ、読み物に加え、製作者側でのソフト提供、読み物がメインだったろうか。特に変酋長である祝氏の読み物にはその語り口や視点の面白さからOh!MZ時代からのファンがたくさんいて俺も楽しみにしていた。
氏による作成のワープロ「サンダーワード」の開発もあったなぁ。キー操作が「黄金律」たるEmacs互換だったので
嬉しかった覚えがある。
電子データへの取り組みもあり、公共データとして既に著作権フリーとなっている小説の電子書籍化なども行われていた。
またOh!Xに毎月掲載されていた電脳倶楽部の広告ページは「日ペンの美子ちゃん」ならぬ「満開の電子ちゃん」で毎回笑わせてくれたため楽しみにしてる人が多かった。

しかし所詮フロッピーの容量でのディスクマガジンである。後期は容量不足のため圧縮されまくった状態で配布され、自分で用意した数枚のフロッピーに展開してから読むという状態になってしまっていた。この「楽しむ前のひと呼吸」が楽しみのような面倒のような。ディスクマガジンという形態で楽を覚えた俺らはどんどん贅沢になっていたのかもしれない。友人と交代に購読していて俺もいつしか購読しなくなっていた。
祝氏も途中からは製作から外れていたようだ。そして1999年、氏の訃報を知る。勿論、実際にお会いしたことなどないし、投稿してたわけでもない単なるいち読者に過ぎなかった俺だけど、それでもえらいショックだったのを覚えている。

◆ユーザパワー
魅惑のスペックに見せられて多くのホビープログラマがX68000のユーザとなった。X68000はユーザパワーと決して切り離せないマシンだ。だからこそ皆の思い入れが深いマシンとなり得た。雑誌「Oh!X」とディスクマガジン「電脳倶楽部」の影響もあり「ないものは作る」の意識が高かったのだろう、新たなユーザをもとりこんでX68000は強力なユーザパワーに囲まれて発展していった。

【フリーソフト達】
象徴的なのがX68000発表の頃からよく聴くようになった「フリーソフト」の隆盛と浸透だ。今では普通に聞くフリーソフト、その名の通り、利用も配布も無料かつ自由なソフトだ。(厳密にはいろいろあるけど)
多くのツール、ゲームがフリーソフトとして発表され、がX68000のプログラミング文化や自作ゲーム文化を盛り上げた。

【プログラム環境】
あらゆるものがユーザの手により作成、改良されていった。例えばプログラミング環境もメーカ純正よりも高速なアセンブラやリンカ、各種エディタやGCCなども広まるようになりほぼ投資なく誰でもプログラミング出来る状態になっていた。高機能なファイル操作ツールに通信ソフトなども市販物以上のものが揃っていた。

【システム関連】
システム関連もついにはユーザの手によるウィンドウシステムKo-Windowまで産まれた。SX-Windowより軽快に動くこのシステムは一部に支持を集め、対応アプリケーションも発表されていった。また合わせてOS部も長いファイル名が使えるTwentyOneや独自のDOSコマンドシェルも広まっていく。画面表示も本来用意されているモード以外の高解像度を表示させたり出来るツールなども現れた。
ハードの限界までしゃぶりつくしていく。そしてそれに応えるだけのオープンなプログラマブルなハードだったのだ。

【音楽関連】
音楽関連では前述のZ-Music/MDXやPCM8などの強力な演奏システムが揃った。これら共通のベース上で数々の自作音楽データが発表されていった。
俺は……自分の音楽センスのなさを知りました。

【そしてDoGAへ】
さらには動画分野にも異変が起きた。
CGによるアニメーションを作成出来るソフト各種(モデリング、モーション、レンダリング)を無償(カンパウェアだっけ)で提供するDoGAプロジェクトの登場だ。CGAコンテストも始まり、当時の貧弱な演算性能で作ったと思えないような力の入った作品が発表されていた。
ここから巣立って今その分野でバリバリ活躍してる人も多いんじゃないだろうか。
俺は……自分のデザインセンスのなさを知りました。

【UNIXの潮流】
大学でUNIXに触れることの多かった俺にはUNIXライクなツールが嬉しかったなぁ。NEmacsにGCC,ITAtoolsで各種UNIX系コマンドが揃い、さらにfishなどの高機能なシェルまで発表された。
このおかげで自宅と学校のUNIXマシンで似たような環境を作成出来ていた。Internetでのメールボックスをそのまま家に持ち帰ればNEmacsで読めるし、論文だって自宅でTeXで書いたものを学校に持っていけば同じイメージで提出出来たのだ。細かな単純実行ツールをパイプで組み合わせて結果を得ることが出来るUNIXコマンドはパズル的でもあり、気に入っていた。

【ミョーなソフト達】
ユーザにより発表されるミョーな遊びツールも楽しみの一つだった。
例えばX68000のオートロード、オートイジェクトなフロッピーを活かして(?)、フロッピーを入れたり出したりするのに合わせて勝手に音声が流れる常駐ソフトがあった。フロッピーをキーボード操作で吐き出させようとすると
「げぇぇっ」
という汚ねー声とともにフロッピーが吐き出される。ご丁寧に普通に入れたときと裏表間違えて入れたときで別の音声が出たりする。もちろん音声は自分で好きな音声に変更可能だった。
他にもキーボードに並んでいる複数のLEDがプログラム制御出来るのをいいことにナイトライダーよろしく例のBGMとともにLEDが流れるように光りだすだけのプログラムやよくダンボールに緩衝材として一緒に入ってるあの「ぷちぷち」をマウスで延々潰すだけのソフトとかおかしなソフト達が登場した。
不思議なことだがこんなお遊びソフトこそX68000ユーザとしての所有満足度に繋がっていた気もする。アーケードそのままの移植ゲームはゲーセンに行ってコイン入れれば誰でも出来る。しかし、こんなバカバカしい楽しみ方はユーザでなければ出来ない(やらない?)のだ。

【通信&ネット】
X68000のユーザパワーを支えたのは雑誌や電脳倶楽部だけではない。パソコン通信や草の根、そして当時はまだ一部の大学などでしか接続されてなかったInternetを通じて、ソフト開発や流通が拡大していったのも大きい。
経済的な理由から俺がパソコン通信を始めたのはかなり後になってからなので想像だが、パソ通やBBSでソフトが生まれ、磨かれて雑誌などで一気に拡大普及するという流れのものの方が多かったのかもしれない。
ちなみにTCP/IP化への流れにはX68000は完全に乗り遅れた。(というか既に見放されていた?) 純正Ethernetボードはやたら高価だったこともあり、持ってる人を見たことも聞いたこともなかった。シリアル経由でUUCPとかやってた人はいるのだろうけど……。ユーザによる拡張ボード企画もあったが俺は未購入。

【その他もろもろ】
ユーザによる独自のディスクマガジンもあちこちで発刊されていたようだ。しまいにゃ、ユーザによるマシンパワーアップのためのハードウェア基盤製作などまで行われていた。
また一部のシャープショールームではユーザ同士の集まりも開催されていた。間違いなく怪しい集団だった。

これら多方面に及ぶユーザパワー、そしてある種共通する気質は既に文化だったのではないだろうか。
ちょっと一部にリベラル過ぎたり暴走気味、アナーキーな部分もあったのではないかと思うが、愛着あるマシンユーザ同士という範疇を超えてユーザ同士が繋がっていた気がする。

◆ゲーム!ゲーム!ゲーム!
さて、X68000の人気を支えていた根幹はやはりゲームだろう。その卓越したハード性能を駆使したたくさんの名作が発表された。
まずX68000のCPUが当時のアーケードで多く使われていたCPUと同じだったこともあるのかアーケードからの移植が盛況だった。最初の「付属グラディウス」の衝撃もあるのだろう、「完全移植して当然」というムードがあった。開発側はさぞ大変だったことだろう。
オリジナルゲームも独特のハード機能とアイデアを活かしたものが次々と発表され、各社で技術を競っていた。
記憶に残る個々のゲームタイトルについてはいつかまた別途まとめるか。やっぱ専用カテゴリ作ろう。

またX68000においてゲーム作成はゲームメーカーだけのものではない。ユーザ作成作品でも凄いレベルのものが数多くみられた。
ワンアイデアによるセンスのいいものもあれば市販ソフトと肩を並べるような完成度の作品もあった。通常、ユーザレベルの作品ではデザインが両立出来ないものが多い。凄腕プログラマーがそのまま凄腕デザイナーであることは稀だからだ。サークルのような複数人での「同人ソフト」発表が増えたのもこのあたりが関係していたのだろう。
また、既存の市販ゲームにパッチをあてて改造して遊ぶものもいくつか見られた。スペースハリアーのキャラ&音声入れ替えなどは皆で大笑いしながらプレイしていたものだ。
ハードメーカであるシャープもX68000のゲーム文化を後押しした。サイバースティックなんていうイカすどマイナーな周辺機器を出したり……って、ちょっと違うか。

しかしこのゲーム興隆の影で溢れる違法コピーがはびこっていたのもまた事実。ゲーム屋にはソフトと並んでバックアップという名のコピープロテクト外しソフトが並んでいる状況だった。プロテクトを外してお気に入りソフトをハードディスク起動出来るようにするなど正規ユーザにも有用な使い方はあったのだが……。ゲームユーザはそうやって自らの首を絞めていたのかもしれない。

◆マイマシン購入
購入資金の増加と値段が少しは下がったのもあって1990年発売のPRO-IIにてようやく俺もユーザになった。友人宅で自分のもののように遊び倒していたので戸惑うことなく環境をカスタマイズ。
マンハッタンシェイプへの憧れは大きく横置きスタイルとなった廉価版のイメージの強いPRO-IIの購入は迷うところもあったのだが、それでもすぐにX68000を自分のものとしたかったのだ。レストの広い結構打ちやすいキーボードがせめてもの救いだった。拡張スロットが4つあるのも特徴的だったが、最終的に使ったのはメモリとSCSIボードの2スロットだけだったりして……。

とはいえ、購入後X68000でバリバリにプログラミングしていたかというと実はそうでもなかったりする。MZ時代の方が確実に時間をかけていた。なんだかんだと忙しくなってきてたのも一因ではあるが、それよりもX68000になってグラフィック性能の向上でゲームにおけるデザイン要素が大きくなった。単なるプログラムだけではゲームとしての見劣りが激しくなり、市販ゲームとの「格差」が歴然としてきたのだ。作るために想定されるパワーと手間の増加が敷居を高く感じさせた。
X-BASICで、市販されてるパズルゲームのルールだけ調べてそのロジックだけ真似してシンプルな画面で作るとか、その程度。自分用のちょびツールは作ってたが、あまり力を入れて作成することは少なくなっていた。また前述のDoGA CGAシステムのようにプログラミングやゲーム以外でも遊べることが多かったということもあるだろう。

それまでの所有マシン(MZ-1500とか)に比べて、市販も他ユーザからもソフト供給が豊富だったX68000で「享受する楽さ」を覚えてしまったのかもしれない。

◆終焉?もしくはエンドレス
「5年間は仕様変更しない」
シャープとしての公式見解というわけじゃないみたいだがX68000の登場時からこのことは暗黙の了解のように思われていた。それまでのPCが互換性のないハード機能変更により前機種で作成したソフトが動かなくなるいことが多かったのに対し、一定期間のハード仕様固定が前提であればソフトメーカは製品を安心して作れる。実際1987年の初代発売から細かな部分を除きX68000の基本仕様は最後まで変わらなかった。
しかし性能も1991年にようやく出たクロック向上版のXVIでちびっと上がっただけ、1993年に初のMPUレベルのメジャーアップデートとなるX68030により性能向上があったくらいで、互換性を考えてか周辺機能に大きなパワーアップはなかった。
XVIの前後には何故か筐体を小型化した機種Compactの発表により3.5インチFD搭載マシンも増えたが、ほとんどのゲームが5インチFD提供なので「X68買ったのにゲームできない」人もいたのではないだろうか。外付けFDが必須だったと想像される。
その間にPC98系やAT互換機の世界では猛スピードでCPUスペックが向上していった。

ユーザの期待と裏腹にちぐはぐな新機種。それはかつて既存資産全てを捨ててまで桁違いのスペックとしたマシンに魅力を感じて購入したユーザにとっては大きな失望だったかもしれない。新たなパワーを望むユーザによるPowerPC搭載の"NewX"登場の噂は絶えることがなかった。
実施、雑誌Oh!Xの特集にPowerPCのアーキテクチャが特集されたりと「もうすぐ出るぞ!」という雰囲気は十分にあった。みんな近々発表されると確信していた。しかし、結局NewXがアナウンスされることはなかった。開発はしたものの営業判断により日の目を見なかったということなのかもしれない。
PowerPC搭載のあるいはUNIX系OSを積んだSX-Window後継な独自IF搭載のNewX…そんな想像もしたりしてましたが、ある意味ソレって今のMacとOS-Xだったりして。

やがて市販ソフトは激減し、ほぼ発売されなくなる。専門誌だったOh!Xは休刊し(その後奇跡の復活を数度遂げるが)、X68000の生産は停止。電脳倶楽部も粘ったものの終了した。ハードはユーザの手によりパワーアップキットや拡張ボードがいくつか企画されていたようだが、俺は手を出していないのでその詳細は不明だ。
家庭用ゲーム機の世代交代により、作成は別としてゲームをプレイする上でのプラットホームとしての魅力は薄れた。ゲームグラフィックの主流もポリゴンへ移行していく。ネットワークもWINDOWS95とともにInternetの普及が進んだが、そこに接続出来たX68000はほんのわずかだったろう。
稀な例外を除けばX68000は静かにひっそりと一部の人の記憶と押入れに眠るマシンになっていく。

ひとつだけ、新たな動きがあった。
Windows上で動作するX68000エミュレータの発表だ。今では複数のX68000エミュレータが発表されている。
当初BIOSデータの問題などでエミュレータを動かせるのはX68000を持っていた人に限られたが、シャープによるBIOSデータの公開により、誰でも動作可能となった。(OSとかがないとあまり意味はないけど) Windows上でHuman68Kやfishを動作させたとき、なんだか懐かしいような、切ないような気分になった。レトロゲームファンも根強く、まだまだX68000の魂は消え去ってはいないようだ。

◆おしまい
エミュレータで当時のアクションゲームを遊ぶと、その多くが256x256の解像度モードで動いていたので、現在のPC画面上で拡大せずに動かすとほんのわずかな四角形の中で何やらちまちま動いてるだけに見える。下手すると最近の携帯電話の画面くらいのサイズだ。
しかし俺らはかつて時にロクに飯も食わず、睡眠も取らずにこの小さな窓の中の出来事に没入していた。この小さな四角形の中で何万もの敵と戦い、何十万回もキーを叩き、何百万もの文字を読んできたのだ。間違いなくここに俺らの青春の一片があった。

淡々と思い出しトピックだけにした割に結構長くなったがそれでも肝心なものを書ききれてないような気分が抜けない。もっとあの頃のみんなのパワーを、語りあったくだらない発想を、バカみたいな毎日を、理想のゲームへの情熱をうまく書き留めておきたいのだけど……。

記憶に残るゲーム編はまたいつか。それが1週間後かさらに1年後かわからないけれども。

2004.03.01

8bit時代のマシン達

えらく間があいてしまったが、ナツカシマイコン関連で所有機種だったMZ-1500のこと以外の当時店頭で触っていた機種についての思い出である。資料なしで書いてるのとなにぶん古い記憶なので事実と違う部分が多々あるだろうがご了承頂きたい。ツッコミ大歓迎。また例によって長くなりそうだが…。

それでは適当に順不同にて。

■ベーシックマスターシリーズ
日立のマイコン。売りがよくわからず仲間内では人気がなかった。当時通っていた電器屋でも電源は繋がっているものの、ディスプレイがつながれておらずほとんど使えなかった。仕方ないのでブラインドプログラミングでドレミ演奏だけ試した覚えがある。BASICで代入文にLETが勝手に入る(I=10⇒LET I=10)んだよな、確か。意味的にはその方が正しい。律儀だがソース見る上では邪魔という…。
日立マシンは後期にS-1という凄いマシン(イメージ)が出たはずなのだが身近で見ることがなくその真価をしることが出来なかった。覚えているのは「走るS1」というコピー(?)だけである。

■JR-100
天下の松下電器のマイコンであった。なんと、当時の機種にしては珍しくカタカナが使えなかったので、みんなの購入対象から外れていってたような気がする。印象的なのはBASIC言語のコマンド文がキーボードのあらゆるキーに割付られていた。「○○押しながら△で"GOTO"を入力」みたいな感じ。
後継機種のJR-200も出たはずだが、あまり見た覚えがない。遠い電器屋までいくのが面倒なので近場の店を探していたときに近所の松下の小さなお店で触らせてもらい「こんな客初めてだよ」と言われた甘酸っぱい記憶がある。あれはいい意味だったのか悪い意味だったのか…。

■VIC1001
Amigaなどで有名なコモドール製。なんといってもその特筆すべきはそのデザイン!
決して奇をてらったものでなく、シンプルなものなのだが、白をベースに黒のキーボード、そしてファンクションキーが縦に並ぶ。これをタイプしているとスパイ大作戦とかの海外TVドラマのような気分。デザイン的には一番好きだったなぁ。置いておくだけでもいい感じ。いまでも筐体がちょっと欲しいかも。

■M5
ソードのマイコン。実物を見たことは実はないのだがベーマガで高品質(そうな)アクションゲームが掲載されることが多く、興味をそそった。おそらく実際はメモリ制限がかなり厳しかったのではないかとと思うが。

■ZX81
シンクレア製。使ったことはないのだけど、いつもベーマガの裏表紙を飾っていたので記憶にある人は多そう。価格が安いので一時ひかれたもののスペックのメモリ容量見てそのメモリ(ステップ数)で何をすればいいんだ?と思った覚えがある。

■SMC777
ソニーのマイコン。松田聖子がイメージキャラクターだったんだっけ。ソニーらしくグラフィックにこだわり、多色使えるのが売りだった…ような気がする。かなりおぼろげ~。

■PASOPIAシリーズ
東芝製。これも身近で触る機会がなかったのだが、雑誌広告が横山やすし師匠だったのが強烈な記憶。

■ぴゅう太
トミーが作ったかなり特異なマシン。売りは日本語ベーシック搭載、ということだった。とはいえ、"GOTO"が"イケ"とかになってるような単純なコマンド名の置き換えレベル。俺は入力速度は逆に遅くなってしまった。
実は友人が購入したので遊ばせてもらったことがある。何より驚いたのはそのデータ保存方式だ。例えば1行だけのプログラムを作ったとして、そのプログラムを保存するとしよう。カセットテープへの保存、読み込みそれぞれに10分近くかかっていたんじゃないだろうか。たった1行のプログラムなのに、である。これはおそらくこのぴゅう太の思想が「まずグラフィック画面背景があって、その上でキャラを動かすプログラムを作る」ということにあったのではないだろうか。そのプログラムがグラフィックを使おうと使うまいと関係なくデータ保存するときはグラフィック画面まるごと+プログラムを保存していたのだと推測する。
ベーマガでもぴゅう太のプログラム掲載は大変だったようでグラフィック画面デザイン用のグラフ用紙みたいなのが載っていた記憶がある。大変だなぁ。
俺は早々にプログラミングをあきらめ、カートリッジ提供のゲーム「Mr.Do」で遊んでいた。こちらは楽しめました。

■FM-8/FM-7
当時(現在もか)の一大勢力である富士通のマイコンである。まず何よりもFM-8は筐体がデカかった。オフコン寄りな部分もあったのだろう。身の回りのユーザレベルではFM-7になってからが人気が出た。
FM-7もクセのあるマシンで、確かキーボード制御等に別チップを搭載しており、プログラム実行速度は速いものの、かわりに「押している間」のキーボード判定ができなかったようだ。ゲームでキャラが左右に動くとするとテンキー操作で
「4:左 5:『停止』 6:右」
とキャラを止めるための操作が必要だったのだ。市販ゲームでもそういうのが多かったので、このあたりが他機種ユーザの批難の餌食になっていた。
また文字をグラフィックとして描くというのも当時珍しく、グラフィック表示後にプログラムリストを流すとリストと一緒にグラフィック画面がスクロールしていくのだった。グラフィック描画能力が高いのでゲームもグラフィック重視のものが多かった。えっちぃ系のゲームも結構あったような気がする。……ちょっと羨ましかった。
あと広告がタモリをイメージキャラにしてたよなぁ。ドラゴンスレイヤーでキャラとして出てきたのがウケた。
 
■X1シリーズ
シャープ製。MZシリーズとは別のテレビ事業部が作ったマシンでテレビとの親和性とスタイリッシュなデザインが目をひいた。X1シリーズについては私見だが、初代が一番格好いいと思う。本体とキーボードが分離され、カラーもワインレッドやスノーホワイト等、それまでにあまり見ないようなものだった。グラフィック、速度ともバランスよくゲームも豊富な人気マシンで、周りでも使用ユーザが多かった。
一時期その友人からマシンを貸してもらってカセットテープ版のXanaduをやっていたのだがフロッピードライブ前提のような作りなのでテープをかっちゃんかっちゃんスキップしまくり。キャラ作成だけで1時間近くかかるような状況だった。それでもあのゲームが出来るという熱意でワクワクだったのである。カセット版を出してくれた偉業自体に万歳である。(でも返却までには諸事情でほとんどゲーム自体は出来なかった…)
この友人、前の記事で触れている俺がMZ-1500で作ったRPGを見せたら対抗してX1で迷路の3D表示プログラムを作ってきやがった。表示速度的に俺のが完全に負け…。ちっ。「MZとは違うのだよ、MZとは」って声が聞こえる。省メモリプログラムのせいかもしれないけども。

■PC-8001/8801シリーズ
言う間でもなくNECの人気シリーズ。以前の記事で書いたように俺が最初にマイコンに関わるきっかけになった機種である。パーソナル向けとしては文句なくベストセラーだろう。当初特出した機能というのはあまり見当たらないのだが後期マシンではFM音源の搭載などゲームを意識したものになっていく。
何よりもこのシリーズはソフト資産が一番の宝だった。
ボコスカウォーズ、テグザー、ブラスティ等、マイナー機種のユーザから見て羨ましさでヨダレだらだらだった。
ホビーPCはPC88,X1,FM-7の争い、というイメージだったな。この後もPC98,X68000,FM-TOWNSとあんまし変わらない構図だけど。
PC98シリーズはやはりこの当時はまだビジネス向けなイメージが強く、あまり触れることはなかった。

■PC-6001/6601シリーズ
PC-6001については以前の記事で触れた通り。最初に購入を目指してたマシンだった。
PC6001はあの独特の消しゴムっぽいキー、押したときの「プッ、プ~~~」という電子クリック音、画面の色滲みなども思い出の一つだ。
そういえばPC-6601SRは友人が持っていた。なんか小松左京氏監修のSFアドベンチャーゲームがついてた。さわりだけやらせてもらったはずだが全然覚えてない…。

■MZシリーズ全般
・MZ-700
所有機種だったMZ-1500の前身となる伝説の名機種。
タイムトンネルシリーズやビルディングホッパー等の有名ソフトを保有する。凄いのはその豊富なキャラクター文字パターンを活かしたキャラグラの凄さ。グラフィックが使えないことをモノともしない、いやむしろキャラグラであるが故にCPU性能は高いと言えないのに高速表示、省メモリ、独特の味わいを実現していた。
また、そのMZ-700でグラフィック表示させるツワモノも現れた。(画面へのライン同期割り込み毎に表示キャラを入替えるという荒業) 雑誌Oh!MZではTinyXEVIOUSが発表されたのも衝撃だった。
数々の伝説とともに『MZに不可能はない』を体現した機種だろう。

・MZ-80B
高級感漂う機種。グリーンディスプレイ、カセットとの一体型で、「コンピュータ」というイメージそのものを具現しているかのような佇まいであった。K/C等80シリーズは他にもあるし、本流でもあるのだろうが、俺的なインパクトは80Bの印象が強い。

・MZ-2500
フェニックスとも呼ばれていたMZ-2000シリーズの強化版。X1の興隆とは対照的に存亡の危機にあったMZシリーズの救世主となるべき存在だった。
ハードウェアによるリスト表示させると酔いそうになるスムーススクロールや新CPUである高クロックZ80Bの搭載等、強化ポイントは多かったものの時代の流れは変えられなかった。

MZシリーズ全般についてまわるOSを後読み込みとしたクリーン設計、今となっては当然なことだが、当時は珍しかった。カセットテープが主流だったので使える状態になるまでの時間が長くなるというデメリットの方が多かったためだ。批難の中にあって最後まで曲げなかった意志の固さは素晴らしい、かもしれない。

■MSXマシン達
Microsoftの名のもとに発表された標準規格マシンMSX。
当初かなり期待していたが、最初に見た感想は正直「今さらこのスペックかい」だった。スプライトこそ搭載されているもののハードウェアスクロールもなく、解像度、カラー色数、速度、どれもあまり目をひくものはなかった。狙い的には低価格ハードに統一仕様でソフトを普及させるというものだったのかもしれない。
その狙いがある程度成功したのか思ったよりユーザはいたようだ。今でもMSXのファンの集いがあるくらい、実は愛されたマシンだったのだろう。
またソフトもコナミを始め、カートリッジゲームも豊富に供給されていた。イーアルカンフーやハイパーオリンピックみたいなやつにみんなでハマっていた覚えがある。
各社が規格参入し、発売されたハードも様々だった。カシオの厚みのないぺらぺらキーボード(すぐ剥がれてしまってたが)は思い出深い。

なんかいろいろと書くべき機種が抜けているような気もするが、あんまりだらだらと長くなるのもナンなのでこのへんでやめておく。(もう手遅れ?)
あー、これでマイコン・パソコン関連は随分吐き出して楽になった(?)なぁ。…あ、X68000が残ってたか。そのへんはいつかまた…まだこのページが続いていたら。

2004.01.27

MZ自作ゲー時代

ナツカシマイコン番外編というか、こういう機会がないとなかなか振り返ることもないと思うので前回経緯を書いたMZ-1500時代に自作していたショボプログラムの数々を記憶にあるほんの一部だけでも辿ってみようと思う。

『初期のモロモロ』
初期はラインで引いたアミダ目みたいなのを邪魔の避けて塗りつぶしていくとか、上スクロールで邪魔キャラにぶつからないようにワンキーで方向転換操作していくものとかそういうの。蛇のように体が伸びていってどこまでぶつからずに延びていけるか、とか。みんなで同じようなの作ってたなぁ。
パレット変換で通路を3Dで高速で進んでるように見えるものとかの実験的プログラムも含め、こういうレベルのが何十個も作られていた。この時期を抜け出してようやくPCGを使ったキャラクターゲームが作られていく。

『スケバン刑事』
左右から来る敵をひたすらヨーヨーで倒していくちまちまゲー。
本人が言うのもナンだが全然楽しくない。振り返ってシャー、振り返ってシャー、振り返ってシャー…。これで楽しいはずがない。ゲーム性のゲの字もなかったなぁ。スケバン刑事なのに何故かオープニングメロディがキャッツアイ。もう何なんだか。スケバン刑事(漫画の方)の一気読みをした頃に作ったんだっけ。

『テトリス』
当時ゲーセンでハマる人が続出していたセガのテトリス。
ルールや画面は簡単だったため、パソコンを持っていた人は自分でも作ってみたくなったはず。俺もその中の一人。
ちゃかちゃかと2日くらいで出来たが、S-BASIC&高速化をあまり工夫のない作りになっていたので徐々に速度をあげるということが出来なかった。いつまでも対応出来るスピードなのである…。高速化考えるのも面倒なので放っておいたが、友人には一番好評だった。一応、ゲーセンテトリスの練習になるからだろう。
その後、Oh!MZでのBASICコンパイラにてゲームとして成り立つ速度になるがその時は既にブームは過ぎてしまっていた。

『アドベンチャー』
今となってはタイトルがあったかどうかも不明。
あの有名なデゼニランドに影響され、友人と二人で共同で作成していた。友人が方眼紙に絵を描いて、座標を読み上げ、俺がそれを描画ルーチン向けのDATA文へ落としていく。
勿論コマンドは選択でなく単語入力式。何画面分作ったのか覚えてないが、結構画面数はあったような気がする。ただしストーリーと呼べるものはなく、単純に画面毎に意味があるのかないのかわからないようなキーワードを当てていくだけのゲームだったと思う。昔作った実験プログラムも活用され、意味もなくワープするシーンがあったり、PSGでの効果音とかが脈絡なく入っていた。あるものは全部使え的な節操のなさだ。
途中でメモリが尽き、2段ロード、3段ロードと増えていったが、3段目あたりで挫折。
コマンド入力アドベンチャー全盛だった頃。勢いに任せて同じようなの作ってしまった人多いんじゃないだろうか。

『多重スクロールへの挑戦』
初めてマシン語を取り入れたもの。アセンブラなどないのでいわゆるハンドアセンブルだった。当時バリバリだった人なら今でもダンプリストをすらすら読めたりするのだろうか。
俺はこのチャレンジ以外では結局あまり触れないままで終わってしまった。"C3"がJMPで"C4"がCALL,"C9"がRETだっけ、とかその程度。(たぶんそれさえも間違ってる)
これでは横スクロールシューティングを想定し、画面下部の地上部分が多重スクロールするようにしたもの。スクロール部分の出来栄えは結構気に入っていたが、敵の動きアルゴリズムとかが組めないままに放置されて終わった。
似たような横スクロールものとして、PCGのキャラ定義入替えで滑らか横スクロールを実現させようとしていたものもあった。なんだかわからないがスクロールにこだわっていた一時期。何故!? キャラもちゃんと横向きに走るようなアニメーションパターンを作っていた。何か影響されるようなゲームがゲーセンで出てたのかな。ナムコの源平討魔伝はもちょっと後だったような気がするけど…。
この時だけプチなめらかフェチだったのかもしれない。

『本格RPG(のつもり)SPINOZA』
大きめの作品にしては珍しく完成したもの。ブラックオニキスによりRPGが流行りだしていた頃で、その路線を目指して作った。
画面は3D表示の迷路とタイトル、HP等のパラメータ、敵モンスター表示画面、位だったかな。迷路を進んで遭遇した敵を倒してパラメータが成長していく、というRPGの経験値による成長エッセンスだけを取り入れたもの。
とりあえず画面のクオリティをそれっぽく見せるためにTEXTをそのまま使わず、タイトルもパラメータ数字も全てPCGで手作りしていた。当時友人数名とSARADA SOFTと名乗っていたので、そのロゴもPCGで作って入れていた。(スペル間違いにも気づいてない頃だ…) 見た目に頑張ったおかげか仲間内での評価は一番良かった。
3D迷路といってもテキストの組み合わせによるもので、前に進める、左右に道がある、がわかる程度のものだった。
一番自分なりに頭をヒネって工夫していたのはすぐになくなるBASICプログラムのメモリ領域不足を解消するためのPCGエリアへの迷路データ格納だった。迷路データはまず方眼紙に書き、それをそのマスの4方向に扉があるかで2進数⇒16進数化しPCGデータ領域に格納していた。敵モンスターのグラフィック定義も含めてPCG設定のプログラムと本体プログラムを分け、2段ロードさせて残りメモリを稼いでいた。
迷路データ入力ミスをきっかけにある方向からは入れるが入ると戻れない隠れた壁が実現できることに気づき、ちょっと嬉しかった覚えがある。
操作は迷路を進むカーソルキー、敵と遭遇したら(単に乱数)戦闘モードで上キーなら戦う、下キーなら逃げる、それだけのゲームだった。敵キャラクタも15種類くらいはいただろうか。一応ラストのボスもいたが、自分含め、誰もズルなしでそこまでたどり着いたことはない。てか、ボス体力設定値がハンパでなかったような…しかもラストのネタが凄い。
自分でも呆れるが当時は真剣に考えた末の設定だったのだろう。何故RPGで無限にモンスターが発生するのか、その親玉になれるものとは? というところからの思いつきだったのだと思うが、たどり着いた先にある水晶玉こそが"SPINOZA"であり、それがなんとマイクロ惑星にちゃちいアニメーションで変身するのだった。「生命を誕生させるもの=惑星」という涙がちょちょ切れそうな発想である。
ちなみに"SPINOZA"は辞書で適当に引いた哲学者の名前。

『本格RPG(のつもり)第ニ弾 Doldon』
SPINOZAの反省とその後ハマっていたファンタジアンの影響を受けてグレードアップを目指して再度イチから作っていたもの。
PCGエリア格納迷路はそのままに迷路の表示を多段化し、3つ先くらいまで左右通路の有無もわかるようにした。戦闘は上から見たターン制のタクティクス風(というかファンタジアンのパクり)だった。モンスターキャラもサイズが大きくなり、デザインも結構進んでいた。キャラ毎の性格(常に迫ってくる、逃げまくる、ランダムに動く、動かない等)まで設定されていたが実際に作ったのは常に迫るやつと動かないやつだけだったような気がする。
とにかく設定とパーツの作成は進んでいたのだが、結局どこかでメモリの残量から無理だと思ってやめた。
"Doldon"はかつて熱心な宗教家であった王が娘の死をきっかけに神を憎む狂王となった、という設定だったような気がする。(当時本人大マジメ… うひぃ)

『DOORS』
これはほとんど設定だけで終わったもの。
次々とドアを開き、部屋へ入る。上から見下ろしたような部屋には物や模様が描かれ、さまざまな謎が…というようなパズルっぽい要素、ミステリー要素を目指そうとしていたもの。
今考えるとZELDAの伝説に近い要素だなぁ。(アクション性なかったけど)
ネタだけはあれこれ考えられていて、当時のノートに書き綴っていた。攻撃魔法の名づけシステム(最初の偶発的発動時に名づけた名前で画面上に吹き出し表示される)、戦闘時は複数メンバでの合体技あり(ナイフ投げ+雷撃でダメージアップ)等、考えるだけ考えて膨らみすぎたばかりにそのまま放置されてしまったのかもしれない。
この頃既にあまり盛り込もうとするとメモリ限界で終わるってのがわかり始めてたのかも。計画的に作ればいいのだがそんなスタイルではなかった。

他にも覚えてるのはあるが、どこかの他機種プログラムの移植みたいなものだったり、上に挙げたもの以上にしょうもないものばかり。共通していえるのは総じて有名ゲームの影響を受けたパクりとゲーム性のない乱数頼りであることだ。

たとえネタ元が何であろうと、出来たものがどんなものであろうと、食事も忘れて部屋の電気をつけるのも忘れてひたすら毎日パソコンに向かっていた。ネタを考えついたらすぐにノートにとるか、プログラミングを書き始めていた。素晴らしく充実していたのだと思う。

そしてそれが当時のいちパソコン少年の日々の生活だった。雑誌投稿出来るほどではなく、でもプログラム作るのは大好きな、そんな大勢の中の一人。
きっと同時期、同じ生活をしていた人が沢山いる。機種が違っても地域が違っても年齢が違っても。同じように家族から呆れられてたかもしれない。同じように仲間と作品を競っていたかもしれない。同じように新機種の噂に胸を躍らせ、10年後のゲームの姿を想像し…。
そして今、同じような懐かしさでこれを読んでくれている人がいるかもしれない。幸せだったなぁ、としみじみ思うかもしれない。

俺らはゲーム文化とパソコン文化の貴重な黎明期を過ごさせてもらった。こんな私的で長い話、読んでくれてる人がどれだけいるのかわからないけど、あえて言わせて欲しい。

今は今で別の楽しみが沢山あるけど、あの頃のアレ、楽しかったですよねぇ。

前回の記事を書いてから、続きはちびちび書こうと思っていたのに結局一気に書いてしまった。そのときの熱意の残滓がそうさせるのか。
ちなみにこの後、シャープユーザのお約束のように所持機種はX68000へ流れていく。
X68000の話や他機種の思い出はこの頃の傾向からいくとまた長くなりそうなのでいつかまた別の機会があれば…。

2004.01.26

我が青春のMZ1500

ナツカシマイコン、ペンギン叩きの襲来により一日間が入ってしまった。
前回結局自分のマイコン購入まで話がいかなかったのでようやく続き。

さて、『ナイコン』時代を過ぎ、ようやく手に入れた自分のマイコン。それがシャープのMZ-1500だった。発売が1984年なのでちょうど20年前か……いかん、ちょっと意識が遠のいてしまった。

MZ-1500は89,800円と手頃な価格で、名機MZ-700の後継マシンだった。画面解像度は320×200と少々低いがPCGによるグラフィック、PSGによるサウンドに対応していた。また基本的にMZ-700のソフトは何でも動く。そして何よりこの機種が特徴的だったのはQDことクイックディスクを標準搭載した初のマシンだった点である。

『速いぞQD』
QDはフロッピーディスクの小さい奴みたいなもので、片面の記憶容量が64KB、両面使えたので1枚で合計128KBだった。当時としては十分過ぎる容量だった。その64KB分をなんとわずか8秒で読み込むことが出来る。カセットテープが主流だった当時の機種としてはダントツのスピードだった。
実際にはフロッピーと違ってランダムアクセス出来ないとか、1ファイル8秒なので3ファイル読み込んだら24秒以上かかってた、とかあるのだが、それを差し引いてもこの速度は別次元のものだった。せっかち野郎な俺はそこにシビれて購入を決意したといってもいい。
購入資金は前回で触れた貯蓄計画で貯めていたお金と親が貯めてくれていたそれまでのお年玉。ディスプレイまでは手がまわらなかったのでとりあえず本体だけだった。(当時のマイコンは普通のTVに映せるものが多かった)

『合言葉はさんだーふぉーす』
当時のMZ-1500ユーザの中でQDの魅力とともにあるゲームに魅せられて購入した人が多いのではないかと推測する。
あるゲームというのは言うまでもない、『サンダーフォース』である。MZ-1500の発売に合わせるようにリリースされたこのゲームは「QDから8秒で起動!」「高速スクロール」「綺麗な画面」と、MZ-1500の性能を誇示するに十分なものだった。
ゲームを開始するとまずのっけから驚くことになる。
「さんだーふぉーっす!」
そう、このゲーム、スタート時に音声で叫んだのだ。音声合成ボードもなく、いきなりしゃべられると白旗をあげるしかあるまい。
ちなみにこのゲーム、難しくて俺はクリア出来てないままでした…。

『白黒TVでのスタート』
本体を購入したはいいものの、手持ちのお金で買えたのは本体と何本かのゲームソフトのみ。画面は普通のTVに映して使用することになる。しかし、使い出せば何時間も画面とにらめっこするものだからなかなか家のテレビを占領さえてくれたりはしない。
そもそもマイコンについて家族の理解は全くなかったのだ。こんなに面白く便利で世界を変えるものなのに、という思いは通じることはなかった。たまに誰にでも出来るようなゲームを餌にTVに接続させてくれることはあったが、基本的に普段は使えなかった。お客さん用の部屋でこっそりTVに繋ぐしかなかったのだ。今となっては家族もそれぞれの家庭で当たり前のように
パソコンに触れているのだから、密かに「それがお前らが価値を認めなかったパソコンだよ。どうよ?」な気分になったりもする。でもまぁ確かに当時のマイコンで出来ることは限られてたもんなぁ…。
話がそれたが、TVを求めて家の中を探し回り、もう使われてない白黒TVを発見した。それが当面のメインディスプレイとなるのであった。白黒だよ、白黒。しかも電源入れて画面出るまでに十数秒かかる。電源消すと「ちゅいん」という音とともにしばらく画面中央に白い光が残ってんだよ。プログラム作成は文字さえ見えればいいから…と自分を騙しながら白黒プログラミング、たまにカラーTV確認な生活が始まったのだった。

『ディスプレイ導入!』
白黒生活からどれくらいか経った頃、ようやくカラーディスプレイの購入資金が溜まり、電器屋の現品を安くしてもらって購入した。ついにフルカラーディスプレイだ!(くどいようですが、フルカラー8色…です)
嬉しさのあまり思わずパレット変更プログラムで遊んでしまったよ。カラーナンバー設定の美しさにも感心していた。(プログラムで指定するカラー番号は0:黒,1:青,2:赤,3:紫,4:緑,5:水色,6:黄色,7:白と続きカラー番号の合計=混ぜた色という並びになっている)
文字もなんと、1ドット1ドットまで見えるではないか!
カラー画面時間の束縛もなくなり、ますますプログラミングにハマっていった。

『力技グラフィック』
MZ-1500はグラフィックに対応している…が、その仕組みは特殊で、PCG(自分で好きにデザインできる文字みたいなもの)を画面びっしり40×25個の1000キャラ分ならべてグラフィックとしていたのだ。設定できるPCGは全部で1024個。残った24個のみがグラフィックモードで使用できるPCGだった。…つまりライン引いたり、のプログラム作ったらキャラクタを表示出来るのはたったの24個しかなかった。
またグラフィックモードでラインを引くとシュインシュインと音が本体からしていた。勝手にライン音と呼んでいたが何故なのかは不明。もしかして俺のMZ-1500だけだったのだろうか。

『CGと中間色』
グラフィックモードでの楽しみの一つはCGだった。MZ-1500はこの分野、あまり得意ではなかったと言える。
弱点の一つは解像度。値段自体違ったのもあるが他の640×200を表示できる機種に比べるとラインが汚く見えてしまう。
またもう一つ大きな弱点は標準で付属していたS-BASICが中間色に対応してなかったことだろう。中間色はもともとそのまま発色出来るものと、見た目そう見えるように二つの色を格子状に並べることで二つの色の中間の色に見えるタイリングペイントに分かれていた。
当時多色が出せる機種なんてほとんどなかったので、基本的にはタイリングペイントなのだが、MZ-1500ではその後Hu-BASICが発売されるまでBASICでは8色ペイントを強いられていたのだ。(タイリングペイントサブルーチンをマシン語で追加するツワモノもいた気がするが)
ついでに当時のCG技術がどのようなものであったかも書いてみよう。
殿堂はPOPCOMに掲載されることだったのではないだろうか。サンデー系のマンガキャラクターは独占されていたように思う。誰かが作ったCGを見るには、座標データの含まれたプログラムリストを延々入力していたのだ。DATA分で延々列挙される座標。そしてそれをライン文でつなげ、塗りつぶしていく。プログラムを実行すると1本1本線が引かれ、塗りつぶされ…まさに絵が描かれていくのだ。
自分で作ろうとするとまず方眼紙に絵を書き、それを座標データ化していくことになる。市販のアドベンチャーやCGソフトも概ねもそんな感じ。描画手順を記憶しておいて、自動再生するようなものが多かった。
最初にゲームとかで超高速描画として1画面描画0.x秒!みたいなのを見たときは感動したなぁ。当初はあれも裏でライン引いたり塗りつぶしたりしてるのだと思ってました…。

『Oh!MZとの出会い』
この当時はパソコン総合誌以外にもソフトバンクからメーカ毎に雑誌が発行されていた。
NECユーザなら「Oh!PC」、富士通ユーザなら「Oh!FM」、SHARPユーザなら「Oh!MZ」(後にOh!Xとなる)といった具合。
これらの雑誌はそれぞれのメーカのコミュニティであり、ある意味リーダーでもあった。MZ-1500の購入でMZユーザとなった俺も「Oh!MZ」読者となるのであった。
Oh!MZの思い出を語るとまた長くなりそうなのでやめるが、とにかく技術肌のクセのある雑誌で、俺自身、受けた影響は計り知れない。一番の根幹は「ないなら自分で作る」という精神だったと思う。
MZと並行して出ていたX1シリーズからX68000へと繋がっていくその流れの中でこの雑誌が担っていた役割、そしてそこから輩出された人材はかなりのものだったのかもしれない。

『パソコンサンデー』
パソコンをテーマとした番組は少なかったが、「パソコンサンデー」はメジャーな方だろうか。提供はシャープ。
結構長いこと続いてた番組みたいだが、1年毎(?)に使用機種が変わっていく。そしてついにMZ-1500がターゲット機種となったのだった。細かい内容はもうほとんど覚えていないのだが、中村光一さんがドアドアとか動かしてたような…。
この番組の試みで面白かったのは副音声でプログラムを流すということだった。「ピーガガガ…」が副音声で放送され、それをカセットテープにとるなり、本体で読み込ませればプログラムをゲットできるのだ。しかし、俺はこれで一度も成功したことがなかった。映りもそんなに良くなかったしTVのノイズだったのかなぁ。

『その後のMZ-1500』
時代が過ぎていき、残念ながらMZ-1500はあまりブレイクせぬまま黄昏ようとしていた個人的には十分に遊ばせてもらったという印象だったが、寂しかったのも事実。
そしてうちのMZ-1500もガタが来始めていた。
QDは読み込み失敗が多くなり、何度も何度もカッシャッシャッシャーーンとうるさい音を響かせていた。バネは弱り、輪ゴムで補強していた。キーボードの反応も悪くなり、メンテナンスがかかせなくなっていった。ゲームで多用するカーソルキーとスペースキーは特に顕著で、月に一度はバラして掃除していた。
ある時期からさらにQDのディスクが入手しにくくなった。需要の問題もあるだろうが、まことしやかに噂されていたのはファミコンのディスクシステムでQDが採用されたせいではないかというものだった。ケースこそ違うものの、ディスクシステムの中身はQDだった。実際、とある雑誌でツインファミコンとMZ-1500をつなげてディスクのコピーをするというものも掲載されていたくらいだ。
この話の真偽の程は定かではないが、確実にMZ-1500は主流機種としての寿命を終えようとしていた。

ああ、また長い…。

今にして思えばMZ-1500はえらくクセのある機種だったんだなぁ。
雑誌でも性能的に上位にあったのに旧機種のMZ-700の方があの偉大なる「MZに不可能はない」シリーズなどで大きく取り上げられていたような気がする。使用後期はOh!MZでの取り組み(機種互換OS「SOS」やその上で動作する各種言語プログラム等)でのプログラム知識の習得に大いに役立ってくれた。
そんなわけでMZ-1500はいつまでも俺の中で、いろんなものを教えてくれた名機なのである。

また時間があれば当時どんなショボプログラムを自作していたかなども書いてみたいと思う。

2004.01.24

ナツカシマイコン

ぴっくあっぷ。さんの記事でパソコンとの出会いの思い出話を拝見させて頂いた。
家庭用パソコン黎明期にどっぷり漬かっていた者の一人として反応せずにはいられない。

初めてパソコンに触ったのはPC8001(mkII?)だったと思う。もう20年以上前かな。当時からゲーセンを主な遊び場としてたゲーム好きで、その日もとある電器屋の電卓コーナーでボクシングゲーム付き電卓に興じていた。(話が逸れるがこの電卓ゲーム、みため普通の電卓の液晶のところにボクサーの絵が出て対戦するのだがなかなか良く出来ていてハマってた覚えがある)

遊ぶだけ遊んで帰ろうとしたとき、それまであまり足を踏み入れてなかったコーナーを通りかかった。そこである画面が目に飛びこんできたのだ。
「あ、あれってクレイジークライマー!?」
それはPC8001で動いていたクレイジークライマーもどきだった。
ゲーセンでも大好きだったゲームが少々寂しい画面ながらも動いている。動かしていたおそらく当時高校生位の見知らぬ兄ちゃんに話しかけ、プログラムの入ったカセットテープをもらったのだ。(もしかしたら知らない人もいるかもしれないが、この頃のデータの保存は主にカセットテープでした。フロッピーなんて20万の時代)

これ以降、この電器屋を長期に渡って訪れるようになり、コンピュータという画期的なオモチャにハマっていった。
「タダでゲームができる」
というのが最初の一番の動機だった。
ファミコンも発売された頃で、実際のところゲームのクオリティはファミコンの方が断然高かったのだが、自分で作れば、雑誌のを打ち込めばタダ、というのが魅力だったのだろう。

当時自分でマイコンを持ってないが、店などで遊んでいる者は『ナイコン族』と呼ばれていた。俺もその一人で、ほとんど部活動ともいえるくらい、学校が終わってまっすぐ電器屋に向かい、閉店近くまで延々居座るのだ。休みの日は朝から晩まで。店の人はえらい迷惑だったろうなぁ。
でも仲良くしてくれる店員さんもいて(事あるごとに買え買え~と営業も忘れない)、同じような境遇の仲間も増えていった。お互いの少ない小遣いでゲームを買い、皆で遊んだり、自分の作ったプログラムを発表しあったり。
「これ本当に作ったの?市販じゃなくて?」
なんて言葉が一番の賛辞だった。
(誤解のないように言っておくと、スゴいゲームが作れたワケではない。一部の大手から出てるゲーム以外は市販ゲームといえど自作ソフトと変わらない、ショボいものも多かったのだ。ある意味作り手と受け手の距離が最も短かった時代だろう)

この頃マイコンはハードウェア的に多方面への進化を試みている時期であった。表示も文字等のキャラクタからグラフィックへ。カラーも1色から8色(当時はフルカラーといえば8色を指した)、果ては総天然ショックへ。音楽もBEEP音からPSGやFM音源へと。(音声合成機能で歌えるようになったりね…)
ハード毎の拡張性、互換性なんてまだそんなに重要視されてなかった。新機種にはそれまでになかった様々なハードウェアが搭載され、人気や需要にあわせて進化と淘汰を繰り返していた。
機種毎の個性の違いが強いため、機種やメーカ毎のファンがつき、他機種のファンといかに自分達のマシンが優位にあるのかを言い合っていた。その後徐々に没個性化していくパソコンの歴史を見ると、これだけ毎回新機種をわくわくして待っていた時間というのは貴重な、そして幸せな時間だったのではないかと思う。

ゲームもグラフィックを用いたゲームが主流になっていきつつあり、ジャンルも単純なアクションゲームが中心だったものが、海外の流れを受けて、アドベンチャーやRPGなど広がりを見せていた。OSも機種毎にバラバラ。搭載されているプログラム言語も基本はBASICではあったもの、文法の違いなどは多々あった。雑誌に載る投稿プログラムもじょじょに文字キャラクタでないグラフィックを用いたものが増えていた。そんな過渡期。

当時のことで今も覚えている失敗がある。
いつものように電器屋通いし、そこでI/Oだったかに載っていたMZ-80B(だったと思う)用のかな~り長いプログラムを何日もかけて入力していた。
長かった入力作業も終わり、ようやく実行だ!とF1キー(シャープ系は確かF1にBASDICプログラム実行コマンドRunが定義されていた。NEC系はF5,富士通系はF3だったかな…ってどうでもいいか)を押した。
「あれ?」
画面にはスコアの文字とまっくろな画面があるだけ。たまに何やら画面に表示される文字もあるが、何がなんだかわからない。
これも過渡期の悲劇。当時、標準ではテキストしか表示出来ないマシンが多かったのだ。グラフィック用メモリであるG-RAMを載せてはじめてグラフィックを表示できるという仕組み。途方もなく長いと感じたあのプログラムはグラフィックを駆使したものだった。そしてこの電器屋のマシンにはG-RAMなんて載っていなかったのだ。いつか載ったので出来るかもしれないとカセットテープはしばらく保存し続けていたが、結局最後までその機会は訪れることはなかった。期待に満ちて入力し続けたあの時間。今でもすっぱさがこみ上げてくる…。

『ナイコン』時代に主に電器屋で使っていたマシンはパピコンことPC6001だった。89,800円という価格が「いつか買えるかも!」と希望をもたせた。
俺は部屋の壁に目標金額89,800円とそこにたどり着くまでの貯蓄計画を書いて貼っていた覚えがある。月の小遣いからベーマガ(マイコンBASICマガジン。各機種の投稿プログラムをメインで掲載した雑誌。先日ついに休刊となった)代の300円が除かれた額が毎月累計されていく予定表である。ちゃんとお年玉収入まで推測値を入れていた。当時千円程度しか小遣いもらってなかったのに一体何年がかりの壮大なプランになっていたのやら…。
欲しいものが出来たらちびちびお金貯めて一括購入!って癖(?)はこの頃に形成されたものなのかもしれない。
さらにあの有名なすがやみつる氏の『こんにちわマイコン』についていたPC6001の実物大キーボード写真を机に貼り、タイプ練習をしていたことは誰にも言えない秘密の一つである。他の書籍では『はるみのゲームライブラリー』シリーズも必須本だった。PC6001用の平安京エイリアンとか頑張って入力してた覚えがあるが何故か遊んだ記憶がない。動かなかったんだっけなぁ。
他の機種もベーマガ片手にかたっぱしから触っていた。(目当ての機種を誰かが先に使ってると何も出来ないため、誰も触ってないマシンでも遊べるように自然と多機種触わるようになっていく)

マイコン関連雑誌も次々と創刊されていった。
ASCII、マイコン、I/Oなどの大御所は勿論、ベーマガ、テクノポリス、ログイン、PIO,RAM…。
あっという間に消えていった雑誌たちも多い。ソノシートをつけてる雑誌もあった。(PIOか? でもすぐ音が伸びて読み込みできなくなってしまったような)

って、ここまでで既に結構長いなぁ。

そしてこの後『ナイコン時代』を過ぎ、初めて自分のマシンを手にすることになる…のだがそこまでいきつけてもないやん。
当時触ってたいろんな機種についてももっと書きたいところとかあるのだが、そのへんはまとめてまた次の機会に…。